称号十念
正光寺の写経会は書道教室ではないので、字をうまく書くことを目的としていません。日々の生活を穏やかに豊かにするために必要なものごとの本質を再確認するための内省を目的としており、さらには念仏を称えることをもって最期に敬愛すべき先人たちと同じ極楽浄土へお迎え頂くことを目的としています。
先月4月の写経会では、「極楽浄土」の大切さを皆で再確認しました。「極楽浄土」の存在は、今を生きる私たちの力となります。最期は必ず極楽浄土にお迎え頂けるという確信のもと、毎日を一生懸命生きていくだけです。不完全な人間、凡夫である私たちが、少しでも善いことをして悪いことをしないようにして、1か月過ごすことを目標としました。
さて。
今月5月は「戒律」の大切さを再確認しましょう。
「戒律」は二文字でひとつの要語のように扱われていますが、別々の類語をふたつまとめたものなのです。
「戒」・・・いちはやく悟り(心の寂静)にいたるため、主体的に守ろうと決めた事で罰則規定はない。
「律」・・・悟り(心の寂静)にいたるため、あるいは悟りにいたるための修行生活上、してはならない決まり事で罰則規定がある。
「戒」と「律」の大きな違いのひとつは主体性の有無です。「律」を守ることも難しいことですが、自主性を拠り所とした「戒」はさらに難しいのではないかと私は理解しています。
現代を生きる我々の状況と照らし合わせて考えたとき、「戒」が守れない状況には大きく分けてふたつあります。
ひとつめは、周囲の環境に逆らえない
場合です。どんなに優秀な人でも組織内での評価や風土が自分の向かうべき心の寂静(善)と相反する場合、逆らうことは極めて困難です。立場を失い日常生活を維持していくことができなくなるからです。このような場合は、もう一つ別の環境で自分の向かうべき心の寂静(善)を目指し、均衡をとるしかありません。
ふたつめは、周囲の環境に逆らわない
場合です。これは単に楽だからです。逆らったとしても自分の立場や生活を失うわけではないのにも関わらず、流されるままに自分の向かうべき心の寂静(善)と相反する方向へ進んでいってしまいます。
どちらの場合も、放っておくと次第に自責の念すらも無くなっていき、それが当たり前の状態になってしまいます。
そうならないためにも折に触れて内省し、如何ともしがたい人間の性(凡夫)に対する懴悔と、少しでも心の寂静へと向かえるようにするための本質の再確認が必要です。
貴方はもともと自分が一生懸命生きていくために何を律することが必要だと考えていたのでしょうか。改めてそのことに目を向けてこの一カ月を過ごしてみようではありませんか。
このような決意をこめて、写経の願文には「戒律具足」と書いて心静かに内省し念仏をお称えいたしました。
合掌