本日は、正光寺の祈念会でした。
祈念会での内観を通じて大切な事どもを再確認し、これかれの人生を穏やかに生きていくための土台とします。少しでも穏やかな人生を生き抜いたら、最期に極楽浄土にお迎え頂けるようにお念仏をお称えします。
元も子もない話ですが、お釈迦様は、あらゆるものは過去の出来事による結果の繰り返しと見ているので、祈念のたぐいを重視していなかったと考えられます。
法然上人も祈念の妄信を戒めています。祈っただけで病気が治ったりして長生きできるなら苦労ないからです。
一方で、諸々の活動が念仏を称える助けとなるのであれば結構なことであると、法然上人はおっしゃっています。
それはつまり、祈念をすることが自分の目的を達成するための力となるのであれば、それも悪くないという事です。
私たちは凡夫ですから、祈念によって物理的な恩恵を被れるわけではないことぐらいわかっていても、祈らずにはいられない存在です。
一方で、祈念せずにはいられないというのはそれだけ毎日を一生懸命に生きている証拠ではないかとも思うのです。なぜならば、精いっぱい努力の上にこそ、あとは頼むという心からの祈りの境地に達するからです。
本日の祈念会において、それぞれが思い思いに願ったことがきっかけとなって、これからの人生が穏やかなものになるよう、ひたすらに祈りを捧げお念仏をお称えしました。