称号十念
3月の写経会を無事厳修いたしました。
正光寺の写経会は書道会ではないので、字をうまく書くことを目的としていません。
日々の生活を穏やかに豊かにするために必要な “ものごとの本質” を再確認するための内省が目的です。さらには念仏を称えることで、最期には敬愛すべき先人たちと同じ極楽浄土へお迎え頂くことを目的としています。
前回は、「廃悪修善」の大切さを皆さんで再確認しました。
不完全な人間、つまり凡夫である私たちが、自らの善に従って一生懸命生きていくことの難しさをふまえ、とにかく「できる範囲で頑張る!」ということを心がけ、1か月過ごすことを目標としました。
皆さんがこの1ヶ月少しでもこれを心がけることができていれば幸いです。
さて、今月は「雑毒の善(ぞうどくのぜん)」についてお話しいたしました。
法然上人が念仏の教えをお示しくださって以降、称名念仏は瞬く間に世に広まりました。一方で、その教えを間違って理解した人たちが、問題行動を起こすようになったのです。
「念仏さえ称えていれば極楽浄土に往けるのなら、あとはどんな悪いことをしてもいいに違いない!」
仏教は「廃悪修善」を原則としていますし、自分の愚かさを自覚して一生懸命念仏を称え生きていくことが前提ですから、このような考え方は本旨と異なります。
こうした類の行動を戒めるために「雑毒の善」はとても大切にされた考え方のひとつです。これは、うわべでは善いことをしたり善い姿をみせたりしても、内心では全く逆のことを考えていることを言います。
例えば、私は冒頭に述べた写経会の主旨に基づいてお話をしていますが、それを忘れて自分が評価されたいとか、素晴らしい坊さんだと思われたい、ということを目的にした途端どのようなことになるでしょうか。
きっと、すぐには理解できないような難しい単語をわざわざ調べて持ってきてひけらかしたりすることでしょう。「難しいことを知っていてすごいな」などと思われたいからですしかし、それでは正光寺写経会の本来の目的は達成できません。
うわべでは、正光寺写経会の主旨に基づいて話しているようでも、内面では評価されたいと思って行動している、まさに「雑毒の善」の状態です。
私は何とか本旨に違わぬように精進しているつもりですが、「評価されたい」といった邪念を捨てきれずに苦悩している毎日です。
皆さんにおかれましては、私の至らなさに惑わされることなく、あるいは外野からの刺激に惑わされることなく、ひたすら自分と向き合い、できるかぎり「誠の心」で物事に向き合えるようにご尽力いただければ幸いです。
今月の写経会では、不完全(凡夫)である私たちが「雑毒の善」にならないよう注意して過ごすことの大切さと難しさを再確認するとともに、参加された方が次の写経会まで穏やかな生活ができるようにご祈念しながら、共にお念仏をお称えし無事にお勤めさせていただきました。
合掌