6月の写経会を終えて
正光寺の写経会は書道教室ではないので、字をうまく書くことを目的としていません。写経を通じて日々の生活を穏やかに豊かにするために必要なものごとの本質を再確認するための内省を目的としており、さらには念仏を称えることをもって最期に敬愛すべき先人たちと同じ極楽浄土へお迎え頂くことを目的としています。
先月5月の写経会では、「戒律」の大切さを皆で再確認しました。我々凡夫が最も苦手とすることのひとつであります。心身を正しい状態に保つために自分で決めたことを守り続けることのなんと難しいことか。改めて自分が一生懸命生きていくために何を自戒すべきか再確認し、それに基づいて過ごすことを決意しながらお念仏をお称えいたしました。
さて。
今月6月は「楽しむこと」の大切さを再確認しましょう。
江戸時代のお坊さんに至道無難(しどうぶなん)という人がいます。彼が詠んだ和歌のひとつに、仕事で苦悩している人からの相談に答えたと思われるものがあります。
何事も 修行とおもひ する人は身のくるしみは きえはつるなり
(『至道無難禅師法語』)
キリスト教系統の考え方だと労働は神様が与えた罰であるのに対し、神道を拠り所とする日本人にとっては神々さえも働くという尊いものでありました。その後、西洋の労働制度を援用しながら現代まで成長してきた影響か、日本でも仕事はできればやりたくないことの代表格として位置づけられつつあるように見受けられます。
いずれにしても私たちは働く必要があります。それは大変なことです。無難禅師は「修行」と表現していますが、これはまさに「楽しむこと」が大切であることを示しています。
どんなことも楽しいと心の中で思って活動できる人は、肉体的な苦しみをはじめとするあらゆる苦しみも自ずと消えてなくなるものである、というのです。
「なんで自分がこんなことをやらなくてはならないのだ」「面倒くさい」「だるい」と思っていては、ちょっとしたことでもすぐに疲労を感じ益々やる気が落ちていきます。
一方で、そのように取るに足らないと思われるような事でも感性を研ぎ澄まして見つめ直してみると驚きや喜びに満ち溢れていることに気づかされます。
しかし、例の如く頭では分かっていても前向きな気持ちで対象と向き合うことは簡単ではありません。まずは、足元にあるちょっとしたことから再度始めてみようではありませんか。その繰り返しがあらゆるものを楽しむことに通じていくに違いありません。
どうぞそのような決意をこめて、写経の願文には「至心信楽」と書いて心静かに内省し念仏をお称えいたしましょう。
南無阿弥陀仏