称号十念
2月の写経会を無事厳修いたしました。
正光寺の写経会は書道会ではないので、字をうまく書くことを目的としていません。日々の生活を穏やかに豊かにするために必要なものごとの本質を再確認するための内省を目的としており、さらには念仏を称えることをもって最期に敬愛すべき先人たちと同じ極楽浄土へお迎え頂くことを目的としています。
前回は、「一心不乱」の大切さを皆で再確認しました。心を乱すことなく平常心でいることはとても難しいことです。それでも、日ごろから深呼吸をするなどして心を落ち着けるようにする努力は、私たちの日々の生活を豊かに穏やかにする助けとなります。
さて2月は、「廃悪修善」の大切さを再確認しました。善いことをして悪いことをしないようにするという意味で、文字で書いたり言葉にしたりするだけなら簡単ですが、実践し続けることがとても難しいことのひとつです。
不完全(凡夫)である私たちが、善いことをしようとか、悪いことをしないようにしようとするときは、「なるべく頑張る!」という姿勢と「どうせ不完全だから頑張ったってしょうがない」というような開き直ることのない姿勢が大切です。
では、善いことをするために「なるべく頑張る!」ということはどういうことでしょうか。それは「自分が正しいと思う善を 人に押し付けることなく 人から押し付けられることなく ただひたすら考え続け 行い続けること」です。
なぜならば、「自分が善いと考えていることと、他人が善いと思っていることは、必ずしも同じではない」からなのです。
私は過去に、地域の掃除のボランティアに参加したことがあります。私はこの活動をとても善いことだと考えています。きっと、すべての日本人はこの活動を賛同してくれるのではないかと思っています。
しかし、ひとたび外国に飛びだしてみると、街を掃除するという活動が必ずしも賛同されるとは限りません。ある人は「貴方が勝手に掃除をすると私の仕事がなくなってしまうからやめてほしい」と言います。その人にとって街の掃除ボランティアは「悪」とまでは言わないまでも、決して賛同できるものではないのです。
私と「ある人」はどちらが正しいのでしょうか。どちらが正しいということはありません。不完全である人間の行動は、どこまでいっても完全であることはできないのです。
そのような私たちにできることは「自分が正しいと思う善を 人に押し付けることなく 人から押し付けられることなく ただひたすら考え、行い続けること」しかないのです。
今月の写経会では、改めて、不完全(凡夫)である私たちが「廃悪修善」をもって生きることについて再確認するとともに、参加された方々が次の写経会まで穏やかな生活ができるようにご祈念しながら、写経会を無事にお勤めさせていただきました。
合掌